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東名高速道路の終点

2010年05月06日 01:17

今回アップしたレポートにもあるとおり、東名高速道路の終点は小牧ICです。
東京-神戸間の高速道路建設のうち、名古屋-神戸間は現在の名神高速ルートで早くから定まっていたのに対して、東京-名古屋間については2ルートのうちどちらをとるかで長い間論争となっていました。

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1つ目のルートは、東京から神奈川県・静岡県を経て名古屋市に至るルート。現在の東名高速に相当します。
御殿場付近を除けば、比較的平坦な地形であり、また静岡県の主たる都市を全て経由するために東海方面の太平洋ベルト地帯が全て連絡可能になるという利点がありました。
この1つ目のルートについて、ここではひとまず「東海道ルート」と呼びます。

一方、2つ目のルートとして有力視されていたのが、東京から山梨県・長野県を経て、名古屋市に至るルート。現在の中央自動車道に相当するイメージです。山岳地帯を経由するため、工事費が割高になることが予想されるうえ、人口があまり多くない内陸部を経由するために経済効果については疑問視されていました。
しかしながら、この案を早くから提唱していたのが、国土開発縦貫自動車道法の生みの親とも言われる田中清一氏。山岳地の多い日本において、内陸部を縦貫する道路網を構築することにより、国土のあるべき発展を図ることができると主張していました。背景事情や手法の差はありますが、後に田中角栄の提唱した「列島改造」に通じるところがあるようにも思えます。
このルートについて、ひとまずここでは「東山道ルート」とします。

1952年より調査費が予算措置され、東京-神戸間の高速道路建設のための調査設計と工事調査が開始されるに至るも、東京-名古屋間については東海道ルートをとるか東山道ルートをとるかでなかなか定まらず。国会も巻込み、実に四年も議論が続きましたが、結局名古屋-神戸間を「名神高速道路」として先に着工し、東京-名古屋間は東海道・東山道ルートの両方を建設することに決定。このときに、東海道ルート東山道ルートの合流地点として予定された小牧ICを、名神高速の起点と位置づけました。
東名高速終点と名神高速の起点が名古屋でもなく小牧JCTでもなく、小牧ICに決まったのは、こんな経緯の名残です。






一応、後日談と当方の見解をコメントしておきます。
名神高速道路は天王山トンネルの難工事も乗り越えつつ、1963年7月に栗東IC-尼崎IC間が開通。1965年には小牧ICから西宮ICまでの全線が開通しました。

東山道ルートについては、中央自動車道として建設されますが、何と当初の計画では東京から山梨県大月市から富士吉田市を経て、何とアルプス山脈の下をくぐり、静岡県の北端である井川村と長野県に出て愛知県小牧市に至るという壮大なルートを計画していました。東京・調布市から順次延伸を進めるとともに、山岳部についてはひとまず大月ICから富士吉田ICまでを先行開通させることに決め、1969年に河口湖ICまでが開通。しかし、そこから先は着工にも至らず。結局、経由地のうち南アルプスの真下である「静岡県安倍郡井川村附近」を「諏訪市附近」に変えて、長野県岡谷市経由の現行の中央自動車道ルートで建設することに決定。1962年の着工以来、約二十年もの月日を経た1982年にようやく全線開通に至りました。途中でストップしてしまった大月IC~富士吉田ICは盲腸のようにぷっつり切れてしまいましたが、「富士吉田線」として残されます。

その一方、東海道ルートについては、東名高速として建設がスタート。1968年に一部区間が開通し、1969年5月には早くも全線開通を迎えました。以来、名実ともに大動脈として日本の物流を支えます。

東山道ルートの建設を優先する主張も、国土発展の基軸をどこに据えるかという点でそれなりに根拠あるものでした。しかしながら、当初案のまま東山道ルートの建設を優先するのはあまりにも無謀な試みだったと考えます。第一に当時の建設技術の限界。原案では、アルプス山脈の下を長大トンネルでくぐり抜ける計画でしたが、5km超のトンネルは実に5本も建造することとしていました。最長のトンネルに至っては9km。当時の技術で参考にできる長大トンネルは1957年開通の関門国道トンネル(3.4km)や1958年開通のR20新笹子トンネル(2.9km)くらいなもの。10km規模といえば、日本最長の関越トンネル(10km)がありますが、1985年になってようやく開通したという長大トンネルです。その他5km未満のトンネルや橋梁等も考えると、果たして当時の技術でそこまでのものに対応し得たどうか大いに疑問です。
第二に、当時の日本に財政事情。名神高速にしても、資金調達は世界銀行によって調達したわけですが、一日工期が遅延するだけで百万円(当時)が消えていくような状態であり、実際10月に予定していた一期工事完成もフルスピードの工事によって3カ月早めざるを得なかったという逸話があります。名神高速ですらこのような状態だったので、アルプス山脈の下をくぐり抜けるという第二東名も真っ青なルートで建設を進めた場合、ただでさえ事業費がかさむであろう当初案では、途中で何らかのアクシデントが発生したら途端に資金繰りショートという事態に陥ったと思われます。
第三に投資効果の問題。当時はワトキンス報告書をして「日本の道路は信じがたい程に悪い。工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にはない」と言わしめた時代であり、高速道路建設以前に一般道の整備すら全く行き届いていない状態でした。東海道ルートで建設した場合は、既存の国道1号のバイパス化という面も持ち合わせるため、高速道路建設により一般道路への二次的効用が期待できます。しかし、東山道ルートで建設した場合は、東京-名古屋間の直接物流という面では効果がありますが、途中の経由地にて発生する社会的便益が東海道ルートよりは低くなり、効率よい資本回転にはなりません。(この辺はいつかはきちんと計量してみたいところですが…)
以上を考えると、東山道ルートは非現実的だったと考えざるを得ません。

色々と紆余曲折を経て、東名・名神・中央道の供用に至ったわけですが、小牧市という一つの地方都市に東名・名神の起終点を定めたという経緯から、高速道路黎明期の世相・国土整備に懸ける当時の思いが伝わってくるように感じます。


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コメント

  1. メークボーイ | URL | I6xHGXnw

    九州でもルート論争がありました

    九州でも、九州自動車道計画時にルートで長い間論争となっていました。終点を鹿児島にするか宮崎にするか、山沿いにするか海沿いにするかといったことが論点でした。

    現行のルートではトンネルが24本(八代IC~えびのIC間の合計)、全線開通も1995年7月(全線拡幅に至っては2004年12月)と長くかかりましたが、そうまでしたのは鹿児島と宮崎の両方の顔を立てるためです。
    論争の段階では、国道3号線と同じような海岸ルートが有力視されていました。現在の山越えルートでは同じように当時の建設技術の限界と、投資効果が少ない(国道3号線経由で建設すれば水俣・川内・串木野など途中の経由地にて発生する社会的便益が大きいが、山越えではそれがない)ことで、山越えルートは非現実的だったと考えざるを得ませんでした。
    しかし、鉄道建設時に宮崎は福岡・本州への最短ルートが鹿児島に比べて大幅に遠くなってしまい、高速道路でも同じようなことが起こってはいかがなものかということで、現行のルートで建設することが決まりました。

  2. KAWASAKI | URL | Qi8cNrCA

    九州自動車道

    >メークボーイ様

    高速道路ルート選定の全体的な話については、国土開発縦貫自動車道の時代からの推移を追っていくと、色々と見えてくるものがあると考えます。個々の路線については、その路線の建設経緯をまとめた公式資料を見るのが、とっかかりとしてはまず一番であると思います。

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